旧遠野市の石碑群
掲載条件
- 供養塔(石碑)群は、原則3塔以上をメインとして掲載する。但し、供養塔(石碑)が1塔しかなくとも重要と思われるものは掲載する。
- 墓石群は供養塔(石碑)群から除外する。但し、供養塔(石碑)と同一場所にあり、供養塔(石碑)が5点以上ある場合または史跡である場合は対象とする。
- 供養塔(石碑)とは、庚申・馬頭観音・山神・雷神・水神などを指すが、参拝記念碑も加えるものとする。
石碑のミニ知識
三峯山(三峯神社)
奥秩父の山中に車ではいること1時間半、三峯神社は海抜1100mの山頂にあります。
三峯神社の権禰宜神事課長さんのご説明によりますと、三峯山という名称は、雲取(くもとり).白岩(しらいわ).妙法(みょうほう)の三つの峰が特に秀でていることから名付けられたそうです。
また、江戸時代までは山伏達の修験の山として栄え、別当観音院が支配していたお山ということでした。
そして1900年の時をさかのぼる昔、日本武尊が国産みの神様をおまつりしたのが三峯神社の始まりで、日本武尊の道案内をした山犬(ニホンオオカミ)がお使いの神だそうです。
お犬様または大口の真神(おおくちのまかみ)ともいわれ火難.災難.盗賊よけの霊験があると信じられ、当時から現在に至るまで、全国各地からたくさんの人々が講社を組織して三峯神社に登ってくるのだそうです。
青面金剛
インド由来の仏教尊像ではなく、中国の道教思想に由来し、日本の民間信仰のなかで独自に発展した尊像である。庚申講の本尊として知られ、三尸を押さえる神とされる。
道教では、人間の体内には三尸という3種類の悪い虫が棲み、人の睡眠中にその人の悪事をすべて天帝に報告に行くという。そのため、三尸が活動するとされる庚申の日(60日に一度)の夜は、眠ってはならないとされ、庚申の日の夜は人々が集まって、徹夜で過ごすという「庚申待」の風習があった。庚申待は平安貴族の間に始まり、近世に入っては、近隣の庚申講の人々が集まって夜通し酒宴を行うという風習が民間にも広まった。
庚申講の本尊である青面金剛の像容は、一面三眼六臂で、手足に蛇が巻き付く姿が一般的で、密教の明王像、特に軍荼利明王に通ずるものがある。日本では各地に石造の庚申塔が多数遺り、そこには「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿像とともに青面金剛像が表わされている例が多い。木造の古例としては、奈良・東大寺の木造青面金剛立像(重要文化財、東京国立博物館に寄託出品中)が著名である。
金比羅宮
金刀比羅宮(ことひらぐう)は、香川県仲多度郡琴平町の象頭山中腹に鎮座する神社。こんぴらさんと呼ばれて親しまれており、金毘羅宮、まれに琴平宮とも書かれる。明治維新の神仏分離・廃仏毀釈が実施される以前は真言宗の象頭山松尾寺金光院であり[1]、神仏習合で象頭山金毘羅大権現と呼ばれた。現在は神社本庁包括に属する別表神社、宗教法人金刀比羅本教の総本部。全国の金刀比羅神社・琴平神社・金比羅神社の総本宮でもある。
長く続く参道の石段が有名で、奥社まで登ると1368段にもなる。海上交通の守り神として信仰されており、現在も漁師、船員など海事関係者の崇敬を集め、海上自衛隊の掃海殉職者慰霊祭も毎年、金刀比羅宮で開かれる。境内の絵馬殿には航海の安全を祈願した多くの絵馬が見られる。金毘羅講に代表されるように古くから参拝者を広く集め、参道には当時を偲ばせる燈篭などが今も多く残る。
青麻神社
青麻神社(あおそじんじゃ)は宮城県仙台市宮城野区にある神社である。旧社格は郷社。旧称を青麻岩戸三光宮、青麻権現社、嵯峨神社などといい、日本各地にある青麻神社・三光神社の総本社である。
天照大御神・月読神・天之御中主神を主祭神とし、常陸坊海尊を併祀する。主祭神三神はそれぞれ日神・月神・星神であり、神仏習合の時代には大日如来・不動明王・虚空蔵菩薩としていた。
常陸坊海尊の霊験により中風封じ、社家の穂積氏が水運に携わっていたことにより海上安全の信仰がある。
社伝によれば、仁寿2年(852年)、社家の遠祖・穂積保昌が山城国から当地に下向し、一族が尊崇していた日月星の三光の神を山峡の岩窟の中に祀ったのが始まりである。穂積保昌が土地の人々に麻の栽培を教えたことにより「青麻」の地名・社名となり、神紋も麻の葉である。
天和2年(1682年)、源義経の家臣であった常陸坊海尊(清悦仙人)であると称する老人が当地を訪れ、中風を治す霊験を顕したことにより、当社に常陸坊海尊が配祀された。